僕ら自身のことばのために
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無政府的乾燥 /燎原中
しなやかな獣たちが雨に消えていく
ぼくは輪郭をこすり立てられる
獣たちの声が白い光に消えていく
僕はマフラーに口をうずめている
知っているだろうか、あの貴族的身体そのもの、
知っているだろうか、偶然にも保たれたバランスを
垢を香りで消す中世的な知恵を
香りを愛していたのでもなく、垢を愛していたのでもない。
ただ垢を恐れていた日々があったことを、
知っているだろうか。
この地下道の入り口でいま、誰もがバランスの継走者だ
ぼくは知っている 鬼神を遠ざける知恵は生きている
ぼくは知っている 輪郭を設定したとたんに彼らの侵略ははじまる
獣たちは侵略されえない 彼らには領土がないからだ
獣たちは歌を捨てない 彼らには領域があるからだ
踏みならされる領土のバランスを感じながら、ぼくは痩せていく領域を感じる
マフラーの中で、ぼくは恐れている。
辺境私論 文フリ出店!・松永修
 本日は宣伝であります。

この度我が辺境私論は、5月6日に開かれる文学フリマにて同人誌を出させていただくこととなりました。ブースはカの32です!みなさんどうぞお越しください



さて中身のほうはといいますと…特集青年(!) とっても青いものになっていると思います。
一冊100円のコピー本なので、皆さんお気軽にお求めいただけると思います。ぜひ買って下さい!宜しくお願いします。



編集作業を独りで行った同人誌辺境私論編集長 松永修
臆病者と最後の離島 /路邯鄲
 窓を開けろ窓を。僕らの体温が耳と鼻とを満たす前にほら。

 今日までの鍵のかかった小箱から取り出すなみだの音をきかせて

 海底を穿つスコップすりきれて一人ぼっちの海溝の作者

 致死量のサフラン海に溶けてゆく想い出波止場に花はいらない

 手を伸ばすだけで流刑に処せられる愛のうらがわ辞書のそとがわ

 靴底にはりつく甘いガム踏んであらゆる路上を旅路と思え

 逃げ出したいそれでもやっぱり聞いてほしい言葉はすべて壜の恋文

 自己嫌悪のパイを投げつけあう僕らクリームだらけの共犯関係
青いインク /路邯鄲
 青いインクになにを溶かそう
 青いインクはなんでも溶かす
 青いインクにペンを浸せば
 うすい便箋すぐに埋まるさ

 昨日のインクはなにいろだっけ
 くじらのあくびをインクに溶かした
 白い眠気のプレゼント
 フジツボはりつくおなかの中から
 夢の中へと泳ぎだす
 とろけて見えない文字の輪郭
 かたちを忘れた声の告白
 消灯時間と走るペン先

 昨日の続きはなにいろにしよう
 帰りのサイレン響く5時半
 腰をくねらすオレンジ溶かそう
 青いインクの水面にハネて
 いつのまにやらムラサキ色さ
 朝が来るまえに書き終えないと
 オレンジが奪われるまえに
 12時間のデッド・ヒートだ
 あなたが好きな12時間だ

 でもきっと
 そんなに時間はかかりはしない
 焦りも追いかけられてるだけで
 頭がはっきりしているうちに
 書き上げないと危ないだろう
 朝に読んだら死にたくなるから
 封してポストに入れてこよう
 ムラサキだらけの4時の舗道さ

 
 うすい便箋さいごの一枚
 きょうの予定を決めちゃわないと
 朝日がきたら船が止まるよ
 インクもここでやめにしないと
 カバンのなかで割れたらことだ
 異国のポストはどんなかたちだろ
 写真をとっていっしょに入れよう
 舳先にとまって泣いているのは
 うみねこだろうかあなただろうか
 やつの涙でインクをさらおう
 読みにくいのは承知の上さ
 にじむみずいろ朝日を待って
 船から下りたらポストを探そう
 船から下りたらポストを探そう
こぼれた醤油/路邯鄲
畳のしみに潜ってみようぜ


通りすぎる春の嵐の白昼夢 振り向き見れば梅のほころび

後ろめたき神父の顔をひっさげておまえの話をとりあえず聞く

檸檬、檸檬、置き場所探しているうちに鞄の中は火薬の匂い

群青と海軍は同じ意味である。血が眠ってる遠い青色。

フミキリが見つからないから歩こうか、鉄路に沿った「とりあえず」たち

屈葬かさなぎか僕にはわからない春には桜が咲くだろうけど

笑いながら炎の舌が去ったとき金閣はもっと美しかった

消えないように刃物のような優しさでおまえの心に刺さっていたい

カフェインと睡魔が速度を競う夜 ロックンロールを消費するべし

拡声器でうたおう世界はウツクシイ僕もあなたも彼らもキタナイ
三題噺「春嫌いの少年・雪解け・布団」/大熊美憂
 初めまして大熊美憂と申します。数時間前に思いつくままに書き綴りました。そこはかとなくかきつくれば。お目汚しお許しください。


 少し早い朝に目覚めた。ちらり外を見ると、山際が白くなっている。ほのかに赤紫に輝く雲が夜の終わりを宣言している。春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。きっと清少納言はこんな風景を詠んだのだろうな。春を感じさせる風景を。
 そう、今は3月半ば。もうすぐ僕の大嫌いな春がやってくる。いや、もう訪れてしまっているのだろうか。少しだけ剥いだ布団を再度頭に覆いながらため息をつく。
 春なんてなくなればいいのに……春なんて大嫌いだ。
「あら、どうして?」
 ぼそっとつぶやいた僕の言葉に、起こしにきた姉が問いかける。
 春が嫌いな理由なんてたくさんあるけども、一番を挙げるなら春は終わりの季節だ。それが最大の嫌いな理由。
 なにかが終わってしまう喪失感、僕はただただそれが怖いのだ。
「うーん、そうね。たしかに春は悲しい季節ね。色々なものとの別れが多いものね」
 けどね。そう言って姉は言葉を続ける。
「すべてのものに始まりと終わりがある。朝が来れば夜が来る、出会いがあれば別れもある、生を受ければやがては死す。それはなんだか悲しいことに聞こえるかもしれない。でも、夜が更ければ朝が来る、別れがあればまた出会いもある、死があれば新しい誕生もある。始まりと終わりは常に背中合わせで、始まるということは終わることでもあり、終わることは始まることでもある。そう考えたら、ただ悲しいだけではなくて、嬉しくも感じられないかしら?」
 なにかが終わったということはなにかが始まる合図だもの、私はすごくドキドキするわ。にっこり笑いながらそう話を締めくくる彼女を、僕は少しまぶしいと思った。僕はその言葉を聞いたうえでもなおマイナスなイメージがぬぐえない。

 始まるということは終わるということであり、終わるということは始まることである。この言葉になぞらえると僕らの世界に平和は訪れない。諍いが鎮まってもまた別の諍いが起こる。始まることも、終わることも、どちらも怖いものでしかない。
「そうね。それを打ち破ろうと革命と呼ばれるものが起きたりするのかもしれないけど、それもまた神の摂理のうちだとすれば悲しいものね。ただその盲点は、諍いが終わってまた諍いが起こることを前提としていることね。もし諍いが終わったとして、その次に始まるのは新たな諍いじゃなくて、平和かもしれないでしょう?」
 たしかにそうだ。でもそれは推測の域を出ないし、どちらにしても平和が始まったものならばその平和にも終わりがある。つまりは同じことだ。
 始まりがあるから終わりがある。始まりと終わりが紙一重な春という季節を、僕はやっぱり好きになれそうではない。
「あなたは悲観的ね。けれど世界がそう回っている以上、どんなにそれが嫌なことであっても春は来るし、終わりと始まりは訪れるわ。そしたらあなたはどうするの?」
 そしたら僕は……冬眠から目覚めた生き物に代わって眠るとしようかな。世界が争っていたとしても、世界なんてこれっぽっちも見えないような地下深くで、泥のように眠ってしまおうか。
「残念ながら春はみんなに平等だわ。もしあなたが春に眠ったとしても、あなたが目覚めた瞬間、あなたにとっての春が訪れるわ。それが夏だろうと、秋だろうと、冬だろうと」
 これも神の摂理のうちかな、まったく嫌になるね。
「そうね。けれど仕方ないわ。そしてあなたはこれからなにかを始めるためになにかを終えなくてはならない。新しい高校生活を始めるために、中学生活に幕を閉じる卒業式に出なくてはならないのよ」
 こじつけのように急な話題転換でふと思い出す。そうだ、今日は卒業式だ。終わりの、そして始まりの象徴とも呼べるだろうそれは、僕にとって苦虫をかみつぶしたような顔をさせるものでしかない。
 オーケー姉さん、仕方ないから卒業式には行くよ。僕の春を享受しにいこう。けれど。
 あと15分だけ眠らせてくれないかな。終わらない、でも終わってしまう夢が見たいんだ。

 外を見ると、日はすっかり昇ってしまっていた。ここからだと雪がまだ残る山がよく見える。きっとこの山ももうすぐ雪が解け切り、花が咲き、緑が生い茂るのだろう。
 窓を通してみるその風景を、屋根から溶け落ちる雪が横切っていく。春はすぐそこだと。
 自由の空気の到来を意味する雪解けでも、僕にとっては招かれざる客といったところか。招かれざる客を人睨みすると、僕は布団をかぶって少しだけ眠りに落ちた。それが春の夜の夢以上に短いものだと知りながら。


大震災に寄せて/松永修
 これは、一人の力を持たない青年がひたすらに懺悔の念を綴る文章である。読む人間にとって役に立つことはおそらく書けないであろうし、また読んでいて不快な思いをさせる可能性が高い。あらかじめ断っておきたい。



 先の震災から1年が過ぎた。そのことに大きな意味を見てこの文章を書いているわけではないし、仮にそうだとしたらそれこそ唾棄すべきことだ。いや、この僕がこんな文章を書いている事自体が唾棄すべきことなのかもしれない。

 僕は、震災に目を向ける事無くこの1年を生きてきた。3月11日、学校に泊まった後は、それがただのちょっとした非日常、ただのイベントであったかのように生きてきた。つまり地震を過去のものとして扱うということだ。しかし、ある人達にとって地震から時間は止まってしまっている。亡くなった人達も、大きな衝撃を受けてそこから動けなくなった人も。彼らにとって震災は現在進行形だろう。そんな中を僕はのうのうと生きている。

 僕は1995年生まれだ。僕らの世代は災禍にみまわれているという言われ方をすることが多々ある。生まれた年の始めに震災が起きた。3月には地下鉄で未曾有のテロ事件がおきた。2001年には同時多発テロが、また2008年にはリーマンショックも起きた。 高校入学の年に、東日本大震災が起きた。
 そんな中でも僕は日常が大きく壊されることなく生きてきている。僕の代わりに悲惨が降りかかった多くの人のおかげで。最高級と言っていい教育を受けている。彼らを踏んづけて。何も不自由をしてこなかった。自分以外の力によって。そんな中何も気にする事無く享楽的に生きてきたと言っていいだろう。誠に恥ずかしい、いや、最低だ。

 大地震からの1年、僕は何を考えてきただろう。原発事故の事に関して必死に情報を漁っていた。原子炉が安定状態になるにつれてその関心は失われていった。そもそも東京に住んでいる以上放射能は限定的だ。だからそのうちに他人事になってったんだろう。
 そして、地震を巡って交わされるいろんな言葉たち… 「絆」の連呼。僕、また周りのある種の人間たちは商業の匂い、うさんくささを感じた。「絆」や震災をいっしょくたにして敬遠した。でもそれは、ただ自分が震災から逃げたかったからなのかもしれない。関東の電気をまかなう会社の発電所の事故で自分たちは被害を受けずに発電所の周りが身代わりとなっている。そういう不都合な事実から目を逸らしたかっただけなのかもしれない。

 僕は高級な教育を受け、ある程度のものを考える力を開発された人間だろう。別に自分のおかげでは全くない。ただただ運良くよいものをもらっただけなのだ。
 でも僕はこの良い暮らしの身代わりとなっている人たちのことなんて考えてこなかった。自分が踏んづけてしまってる人のことなんて考えてこなかった。最低だ。少し想像力を働かすなり、テレビをつけて苦しむ人達を見るなりすれば否が応でも目の前につきつけられることなのに。思考停止をしてきた。逃げ続けてきたのだ。



 
 僕は、本物の悲惨に触れた。それは生まれた年の震災によるものだった。僕がありえた場所で苦しむ生を見てしまった。そうして、僕が目を逸らし続けてきたものがどんなに大きなものだったかを知らされ、申し訳なく、恥ずかしく、いや、言い足りないぐらいのそういった感情が生まれた。今更、である。

 ひたすらに懺悔しなければならない。そして、何か行動を起こさなければいけない。自分がありえた悲惨を少しでもなくすために。こんな長い文章を書いてきたが、偉そうに言う資格なんて僕にはない。でも、コミットしなきゃいけない。今の生活の裏にあるものを常に意識しなきゃいけない。

 今、悲惨のうちにある人達にこの文章を読ませることは出来ない。ただ、なんとかしなきゃいけないのだ。この文章は自分に対して書いたものだし、恵まれている人達に書いたものだ。こんな文章を書いたからには、やらなくちゃいけない。その義務が、くびきが、業が、僕にはあるはずだ。


大震災から1年が経った日に    松永 修
Moment's Notice /路邯鄲
 「他人」という安全地帯から、お互いに脅かされない程度に「わかりあう」僕ら。ほんとはわかりあいたくなんてない、僕らです。安全の前提が揺らぐやいなや、「わかりあえるはずなんてありゃしないよ」なんて言っちゃう、僕らです。
 決定的な距離は、精神のはてしなき曠野は、いったい何マイルあるのか?ぼくは、いつになったらおまえに逢えるのだろうか?


  早春にはためくシャツや窓越しに見ゆる白さはぬくもりの詐欺

  他者として高く掲げる携帯のカメラを濾して保たれるもの

  窓枠に埃つもれり彼は言ふ「澄明さなぞ何にもならぬ」

  飛び跳ねて疲れて眠ってまた跳ねていつか飽きれることのみ望む

  汗染みは淡いブルース上下する肩をちらりと盗み見るのみ

  奪い合う夏の予感が匂ってる?三周目だしうんざりしてる。

  わかりあうことなんてもういいからさ、ただぬくもりをしんじさせてよ

  狩人の孤独を避けて逃げた先諦めている動かない水

  張り紙のどの曜日にも適さなくて、まだ打ちやれぬ蕀の冠

  劇場であって哲学書ではない大衆食堂 窓には脂

  軽蔑を隠さぬ交易商人の千年後への望郷の念

  ブランコで覆い隠して笑いあう古墳の遺跡は消えてくれない

  艶やかな合皮が守る僕たちの退化しきった小指の先を




 (聞きなれたジャズの帰路、連続で短歌をツイートしました。上はそれらを時系列上にまとめたものです。路邯鄲。)
昭和16年国民学校国語科教科書「ヨミカタ 一」研究 第2回/田中恒輝
 <「ヨミカタ 一」研究>
戦時中に国民学校一年国語科で使われた教科書、「ヨミカタ 一」の考察です。教育の目的に「皇国民の錬成」と明記されている時期ですから、そういう意図が見える教科書です。

とりあえず全頁紹介しておきます。文章に関してはネットに転がってますが絵はないのです。この教科書は絵が面白いので。

・表紙
(「ヨミカタ 一 モンブシャウ」の文字、そしてスズメ4匹が住んでいる巣と、傍らにいるもう1匹のスズメ。)
形原のスズメは親だろうか?そうであれば、児童を巣の中のスズメにたとえているのだろう。親に従う子供、という模範をえがいていると思った。
周りには植物の絵が描かれている。

・1ページ
(「ヨミカタ 一 モンブシャウ」の文字と林の絵。)
特筆することはない。

・2〜3ページ
(校庭?で体操する教員と児童)
洋服を児童が男女別に整列し、体操をしている。
この時代ではまだ和服を着る人は多かったが、運動には不向きであるため体操着は洋服である。
教員と男児の足元には、謎の黒い物体が置いてある。鞄に見えなくもないが、全くわからない。
体操着は男女で色が異なっている。また、整列が「男女別」である。現在ではそんなことはあまりないのではないか。男女の区別が重要である当時の時代背景を感じさせる。
そして、絵では男児が手前に並び、女児は奥に書かれている。男尊女卑の雰囲気を感じる。
「義務教育で国民に運動をさせる」というのは、強い兵士として育成するという政府の目的が有るので、「この絵は軍国的だ」ということは不可能ではないが、男尊女卑の雰囲気はあるものの、「軍国的」というのはこじつけだろう。

・4〜5ページ
(男性教員の先導で校庭を行進する児童。奥には木造校舎が見える。左上には跳び箱を飛ぶ男子の絵。)
こちらで出てくる生徒は和服の者と洋服の者がいる。男子では15人が洋服、5人が和服。女子は全員洋服。女子の着物は動きにくいからではないか。
児童の髪型は、男は丸刈り・女はおかっぱというように共通している。
このページでも、「男性教師」「男子が先頭、女子は奥」という描写である。男尊女卑。

・6〜7ページ
アカイ アカイ アサヒ アサヒ
(山々と雲海から上る朝日に向かって、洋服の男児3人と女児2人が万歳をする。傍らには犬。)
就学年齢に満たない年に見える女児がいるので、学校行事ではないのだろう。しかし学帽を手に持っているのだ。現在ではかなえにくいが、「伊豆の踊子」でもそうだったように、当時ではありえたのだ。
この行為は太陽信仰の一種と考えられる。日本において太陽神と言えば、日本神話に出てくる最高神の天照大神であろう。純粋に太陽にバンザイするように見える子供の絵であるが、皇室の先祖に対してバンザイしているとも考えられる。
「なんとなく神を拝むつもりが、いつの間にか皇室を拝んでいた」というのは日本人にありがちであるが(なんとなく明治神宮に行っている人は明治帝を拝んでるわけで)、これもその一種ではないだろうか。太陽信仰を広め、それを皇室信仰に繋げるという。
また、小さなことだが犬に首輪が付いていない。今の教科書であったら修正だろう。

・8ページ
ハト コイ コイ
(3羽のハトが空を飛び、5羽が地面で女児の撒いた餌を食べる。)
ここでも男児は学帽を被っている。
鳩の色が茶色と白である。現在において鳩と言えば黒や灰色のカワラバトな気がするが、当時は違ったのだろうか。wikipediaで調べたら、シラコバトという種がこんな色だった。しかしカワラバトが多いことは昔から変わっていないようだが…。
このページには政府の政治意図は入っていないだろう。鳩であるから、逆に平和の希求とも取れる。

・9ページ
コマイヌサン ア コマイヌサン ウン
(下には阿吽二頭の狛犬像が)
狛犬の阿吽の違いを知っている現代っ子がどのくらいいる物か。今の学校でこの文を出したら難しすぎるだろう。しかし当時は問題なかったのだ。神社が身近だったし、こういうことは大人が教える物だったのだろう。現在の教科書でもこういうことをしてほしい。
また。「コマイヌ」ではなく「コマイヌサン」なのである。7ページで「ハト コイ」と乱暴な呼び方をしているのとは大違いである。神社に関連しているものであるから尊重しているのだろう。神社は皇室の先祖神を崇めるところであるから。
伝統文化を教科書に出していくのは賛成するが、どうも政治思想が入ってる気がする。

・10〜11ページ
ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ
(左にはためく国旗、右下に木)
本来は日の丸に皇室崇拝や軍国主義的な意味が有るわけではないが、当時のことを考えると日の丸バンザイ=大日本帝国バンザイであろう。「太陽信仰」など、一見では体制礼賛には見えないが実際は体制礼賛である例は多くみられるが、「日の丸」もその一つ。いかにもな軍国文章。
形容方式は今と変わらない。支柱に結ぶだけ。

・12〜13ページ
ヘイタイサン ススメ ススメ チテ チテ タ トタ テテ タテ タ
(黒板に行軍する兵士を書く女児2人と男児1人)
この教科書を読んだら最も驚くページ。兵隊が進むというのは征服することだろう。それを普通に教科書に書けるのだから、征服が悪いことだと捉えられていないのだろう。
話が変わるが、「チテチテ〜」という擬音は何なのだろうか。このページの絵の黒板にはラッパ兵も描かれているが、ラッパでこんな音は出ないだろう。
ちなみに、ここで女児の1人はセーラー服&スカートを身に着けており、今でもそこら辺に居そうな格好である。このような服装ではっきりえがかれている女児はこのページにしか登場しなかった。(セーラー服っぽい絵は後姿や上半身だけならば数人)

・14ページ
ガア ガア アヒル ヨチ ヨチ アヒル
(7羽のアヒル)
親が子を先導している訳でもなく、普通のページ。

・15ページ
ハシレ ハシレ シロ カテ アカ カテ
(女児3人が徒競走を行う)
女児の上の服は今と変わらないような体育着であるが、下は「ちょうちんブルマ」というものである。ひざ上10儖未猟垢気如∪菽爾縫乾爐入っていて足を縛るので運動しやすいらしい。1970年ごろまでは普通に生産されていたらしいが今は見かけない。
3人とも靴下が靴より上には見えない。しかし前の方にあったグラウンドを行進する絵でも児童の靴より上に靴下が出ていないので、短い靴下だったのかもしれない。しかし、次のページの児童は長い靴下をはいているので謎である。
内容だが、そもそも運動を記録し比較するというものが軍事的意味が有ったので、それを考えると深い。

・16ページ
ココマデ オイデ ソロソロ オイデ
(幼い男児がそこそこの年の別の男児の方へ歩こうとするのを後ろから女児が見守っている)
女児が長く黒い靴下をはいている。また、ポロシャツ?もスカートも随分モダンである。男児二人の格好も現代にも普通の格好として通用する物なので、他のページから浮いているように感じた。

・17ページ
フウ フウ フウ フクレタ フクレタ カミフウセン
(紙風船で遊ぶ男児と女児1人づつ)
文は5・7・5になっている。
紙風船というのが昔らしい。紙風船というとあまり大きいイメージはないが、ここで出てくる紙風船は顔の2倍近くの大きさなので珍しい。
男児は短パンにTシャツ、女児はワンピースである。

・18〜19ページ
ソラガ ハレタ ウシガ ナク モウト ナク ピイチク ピイチク ヒバリガ アガル テンマデ アガル
(左側は畑で、馬を引いた農民がいる。右には丘が有り、牛が啼いている)
「馬を引く農民」というのが昔らしい。当時はまだ牛馬耕も普通にあったのだろう。
全体に言えることだが、畑や野原が今の教科書より多く登場する。

・20ページ
ユフヤケ コヤケ アシタ テンキニ ナアレ
(男児5人、女児2人(1人は幼児を背負い、もう1人は男児の手を引く)が夕焼けを見ながら丘を歩いている。)
男児は洋装が4人(内1人が学帽着用)、和装が1人。女児は洋装が2人。
この絵も教科書の特徴が読み取れる。それは、「男児が女児より先に歩く」「子供の世話は女」というものだ。確かに、そこそこの年齢の男児3人が先導し、女児は幼子を背負ったり手を引いて後ろを歩いている。

・21ページ
ワタシガ アルク オツキサマガ アルク
(満月を見上げて男児二人女児1人が歩く)
やはり男児が先頭。
このページでは珍しく全員和装である。こういう情緒を感じさせるシーンには和装が合うと認識されていたのだろうか。

・22ページ
オハヤウ ゴザイマス。 イタダキマス。 イッテ マヰリマス。
(男児の絵。右から、正座し礼をする絵、学ランで朝食をとる絵、出発する絵。)
模範少年の朝ということであろう。実は初の句点登場。
挨拶のシーンだが、ここでは和装である。まだ寝間着は和装なのだろうか。
正座で家族にあいさつというのが昔らしい。目上には従う、という価値観は政府の政策に役立つことであるから教科書で推奨していく価値がある。

朝食のシーンだが、学ランを着て食べている。現在、スーツや学ランを着て朝食をとる人がどのくらいいるのだろうか。
メニューは白飯、味噌汁、何かの小皿である。昔の朝食というとしっかり食べてそうだがこの程度なのだろうか。政府がこの絵を出しているのだから、これでおかしいことはないのだろう。

出発のシーンだが、学帽・学ラン・黒短パン・革の肩掛け鞄。黒の靴を身に着けている。
「イッテ マヰリマス」というように、「行って」と「参ります」の間が分割されている。今では一語のような扱いだが。

・23ページ
ホンダ イサムサン。 ハイ。 ワタナベ マサヲサン。 ハイ。 スズキ ハナコサン。 ハイ。 ハヤシ ハルエサン。 ハイ。
(左の長机に女児2人、右の長机に男児二人)
男女別に分かれて長机に座っている。皆洋装である。
出席をとっているが、男女分けた名前順になっている。不平等だとして今は変えられている。

・24〜25ページ
ホンダサンガ、ラッパノ エ ヲ カキマシタ。 ワタナベサンガ、グンカンノ エ ヲ カキマシタ。スズキサンガ、サクラノ エ ヲ カキマシタ。ハヤシサンガ、フジサンノ エ ヲ カキマシタ。
(それぞれの絵)
初めての読点登場。
「ホンダ」「ワタナベ」は男児である。この2人はそれぞれラッパと軍艦という露骨に軍事的なものを書いている。これを音読させるのは児童の思想教育にも有効そうである。
「スズキ」「ハヤシ」は女児である。この2人はそれぞれ桜と富士山を書いている。こちらは日本のシンボルということだろう。ここでもいちいち日本という国を持ってくるのが当時らしい。

・26ページ
センセイ、サヤウナラ。 オカアサン、タダイマ。
(ランドセルを背負い礼をする女児、正座して礼をする女児)
「オカアサン、タダイマ。」というのが気になった。先程男児が朝出発するページが有ったが、あそこでは「イッテ マヰリマス」であった。こちらの言葉は敬意が薄いように思える。これは相手が女性である母親だからだろうか?

・27ページ
ヒカウキ、ヒカウキ、アヲイ ソラニ ギンノ ツバサ。ヒカウキ、ハヤイナ
(青空に軍用機の編隊)
スミ塗にされた写真をたまに見かける有名なページ。
この軍用機は、九十六式陸上攻撃機(所謂、中攻)ではないだろうか。陸上から発進して艦隊を攻撃するために作られたが、実際は中国の陸地を爆撃するのに使われたようだ。敵地へ先制攻撃しに行く場面が堂々と教科書に乗るのは驚きである。
この文と絵はカッコいいのである。これでは軍国少年を生むだろう。

今回はそろそろ切ります。


天体観測雑感 〜『限りなく透明に近いブルー』 /路邯鄲
 こないだ、神奈川県大和市で天体観測をしました。あいにく雲が張ってしまって星は見えなかったけど、いろんなことを考えたり、感じたりしました。
 その後facebookに書いた文章が結構長いのでこっちにも載せます。泊まり明けに朦朧としつつ書いたからお目汚しを許してね。

 「田舎だと星が見えすぎて逆に初心者の天体観測には向いてないんだけど、ここらへんならいい具合にメジャーな星座だけが見えて観測しやすいんだ」
 茂木が言う。俺はそのとき何してたっけ。ああそうだ村上龍。限りなく透明に近いブルー。あれの意味考えてた。

 冬休みの寒い朝に布団の中で読んだんだった。あとがきで「近代化が終わった後の喪失感」って柄谷行人が書いててさ、よく言われる「放埓な若者たちの〜」とか「モラルが〜」とかをすっ飛ばしてそのタームだけが頭に残ってた。
 確かにショッキングな本なんだよ。そこらじゅうアメリカに征服されてるみたいな内容でさ。三島由紀夫が読んだら憤死とかしかねねえなーとか思いながらコソコソ読んでた。モラルもプライドもあったもんじゃない。セックス・ドラッグ・ロックンロールって、字面よりも気持ち悪いなあって顔をしかめた。

 それなのに、や、それゆえに、きれいなラストシーンが一番強烈だった。主人公が芝生に寝そべって、青いガラスのかけら眺めて「限りなく透明に近いブルーだ」なんて感動してやがんの。むかつく。おまえヤク中のくせしやがって。
 じゃあなんでそこに感動するかって考えたらさ、「近代化が終わった後の喪失感」ってところに行き着いちゃうんだよ。主人公の「リュウ」は気づいてないだろうけど、アメリカ(雍畭綸な環境整備)に蹂躙された男と街っていう連中は近代化以前の空を直視できないんだよね。まぶしすぎて。だからブルーのガラス越しに見て、それでようやくきれいさがわかる。ガラス片なんてぶっちゃけただのゴミだし、汚いし。近代化のフィルターそのものやん。でもそれがないと僕たちはダメなんだよね。免疫ないもの。リュウが感動したのは、ガラス越しに空を見れたから。リュウはガラスが無いとき、空を見れないんだろうね。

 さてそのフィルターは「リュウ」にしかないというのは間違いで、みんな持ってるんだろう。

 近代化の定義はたくさんあるだろうけど、ここで僕は「たまたま先行していた秩序による検閲」としたい。ほら連中カネと兵隊とがあって強いから、検閲するだけの力はあるんだよね。(これ言うと政治的になってやだな)
 近代以前にあったもので、「いま残ってるもの」と「いまはあまり見られないもの」に分けて考えてみようぜ。たべもの。蜂の子は拒まれた。カブトムシの幼虫も拒まれた。ゲテモノ食材に限らず、だいたい地域の料理がそのまま受け入れられることは少ない。
 で、受け入れられるのはチャプスイとか、麺とか、カレーとか、スシとか。その残ったラインナップ見ればわかる。口に合うか合わないかっていう検閲はあるんだってこと。
つまり、検閲って言うのは直接的なものじゃなくって、文化とかアイデンティティへの感性に気づかぬうちに忍び込んで、そいつの取捨選択ってかたちを借りて行われる。みんなハンバーガーを、コカコーラを、リーバイスを、、、好きになればなるほど感性を書き換えられて、その「(アメリカを受け入れた)みんな」のお口に合わないものは排除されるんだ。見えなくされるんだ。

 結局何が言いたいかって、その検閲後の世界に僕らは住んでいるんだと。この検閲を「近代化のフィルター」って言い換えてもいいかな。
 でもさ、その検閲が信用に足るものだったかってそうじゃないよ。よく言われる「子どもに和食の滋味はわからない」ってやつ、ああいうふうに「いいものだけど検閲の対象になる」ってものもあるんだよね。

 それが、空だ。

 茂木の言った「見やすい空」は、僕にとって検閲後の空だったんだ。僕はガラスのフィルターを当たり前のように持ってたんだよね。
 いくら上を向いても茫々として切れ目の無い雲行きに、哀しくなった。
 哀しさの理由は、フィルター越しにしか空を受け入れられない惨めさだったんだ。


 とまあこんな感じ。
 別にアメリカのこと叩いてるわけじゃないのよ。アメリカナイズだってアメリカがやらなくてもいずれ同じことだっただろうし、アメリカナイズ以降の世界にも素敵なものはいっぱいある。責めるべきはアメリカじゃない。というか、責めるべき対象なんていない。
 でも、どんなことをしても以前の世界を見ることはできない。
 僕たちができるのは、惨めさと哀しみを背負って明日から生きることだけだ。
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