「いただきます」
今回は「ひかりごけ」第一回です。非常に重たい作品ですが、読まれるべき作品だとも思います。
現代文の授業で
武田泰淳「ひかりごけ」をやっています。作品は3つのパートからなる小説で、随筆調の筆者の語り部分と戯曲調の「ひかりごけ事件」を描いた部分2つとで構成されています。極限状態における人肉食を描いた作品です。
太平洋戦争後期、漂流した軍属船の乗組員は極寒の知床半島に漂着する。命こそ永らえたものの食糧はなく、船員たちは次々と死んでいく。その過程で人肉食と殺人が行われる。最後に生き残った船長は社会に帰還するものの、人肉食の事実が発覚し裁判にかけられる。以上が戯曲のおおまかな筋です。とても刺激の強い作品です。
それでははじまりはじまり。
さて、今夜取り扱うのは人肉食について。一般にタブーとされる人肉食にもさまざまな種類があり、葬儀の一種から娯楽の一種まで多岐にわたる。この作品で扱われているのは「極限状態におけるやむなき人肉食」であるから、「朋輩を食欲の対象にすること、対象化すること」としての人肉食について考えよう。
この「対象化」はふつう食用の家畜にしか行われない。愛らしいペットを〆て食らうことも、通行人を切り刻んで食らうのも行われない。そもそも僕らはむやみに殺生をしない。「殺して食らう」という行為は、僕らが日常的に行っていながらもなお多くの人にとって抵抗があるものだろう。
たとえばこれは父の話だが、当時の鹿児島では多くの家庭が家畜として鶏を飼っていた。鶏の世話が彼の仕事だったかは知らないが、幼少ころの彼がこのおもしろい動物に若干の親しみを抱いていたとしてもそれはごく自然なことだっただろう。とはいえ鶏はまた、ペットではなく家畜だった。一家の蛋白源としていつかは殺される。幼少期に鶏の屠殺を目の当たりにした彼は、以来鶏肉を食べられなくなってしまった。
このように、ほかから命を奪って自らの食欲を満たすという行為はとてもショッキングだ。この例は何も特殊なことではない。屠殺が完全に事業化されて不可視化される以前は、みんなこのショックに触れていた、ないしは知っていた。殺して、食う。この一連の行為はとてもショッキングだ。血も出るし、叫びも聞こえる。
本来、肉を食うという行為は非常に残酷で業の深いものだった。
ではなぜ人類はこれを受け入れてこれたか。宗教を考えの外に置けば、これこそ「対象化」のためではないか。
「"あれ"は俺たちとは違う"動物"だから、俺たちは"あれ"を食ってもいいんだ」という体での問題の軽量化、これこそが「対象化」の際に行われる処理―仮に
「対象化」とおこう―だ。自分たちと対象の間に線引きをして食欲を正当化するという行為を、僕たちは日常的に行ってきた。それが悪い卑劣云々ではなく、僕たちは行ってきた。
さて、話を人肉食に戻そう。一般に人肉食が普通の肉食より罪が深いとされる理由はここにある。
「対象化」が食欲への正当化であるのなら、
「対象化」によって食欲が暴走することが考えられる。いちど
対象化された"それ"は際限なく食われる。リョコウバトが絶滅したのは、その肉のうまさ、数の多さによって
対象化が強化され、際限なき食欲によって食い尽くされたからかもしれない。では、
その「対象化」が人間に向けられたら…?悲劇しか生まないだろう。自分たちの平和な社会が、餓鬼の血塗れた地獄絵図に変わる。社会を食欲から守るために、人間同士の対象化はタブーとされた。
そして、自分に向けられたら…?これほどの恐怖はあるまい。"俺たち"の範疇から疎外され、きのうの同胞から食われる。そして死ぬ。孤独と、食される生々しさと、痛みのなかで死んでいくのだ。この恐怖を正当化する対象化のプロセスは忌避されて当然だ。
すなわち、人肉食のタブーは社会の維持と「食われる」恐怖によって裏づけされている、対象化への抑制であると言える。
奇しくも、社会形成以前の原始の遺跡からは食されたあとの人骨が見つかるらしい。社会の成立以前は、どのような地域でも広範に人肉食が行われ、人間が家畜とされていたとの説もあるそうだ。その一方で現代の高度な社会では人肉食を正当化する集団はいない。これは僕の考えの裏づけにはならないだろうか。
この
「対象化」というタームはこの後も重要になってくるが、今夜は遅いしもうこの辺で。